不要回頭、一直向前

趣味や旅の記録など

タイランド 30年前の旅の思い出を辿る - 1 -

 ただ記憶だけを頼りに

 かれこれ30年近く昔のことなので、うろ覚えのことも多く、写真さえ一枚もない。これは、ただ記憶だけを頼りに書きつられていく回想録だ。

 

 元々、大学では中国語を専攻していたこともあり、当時、頭の中は中国のことばかり。卒業旅行は何処に行くか、という話題になって、当然、自分の中では中国が第一候補だった。しかし、中国には鑑真号で旅行にもいったことがあるし、何より、一年間の留学経験もあって、既に中国のあちこちを訪れている。クラスメートの晃宏から「タイが面白いから、タイ行こうぜ!」と勧められたが、最初は、「東南アジア、あんまり興味ないかなぁ」と気が進まなかった。東南アジアと言うと、暑くてジメジメしているというあまり良い印象を持っていなかった。だが、度々勧められるうち、それも面白いかもしれないと思うようになって来た。晃宏は探検部サークルに所属していて、ちょっとした冒険旅行にも慣れていて色々教えてくれる。何よりもトレッキングを強く勧められた。そうこうしているうちに、留学中に知り合った高木君と話が盛り上がり、「バンコクまで一緒に行こか」ということになった。

 それからは出発まで生活費を切り詰めながらバイトで旅行費用を稼ぎ、最終的には50万円くらい工面出来ただろうか。

 晃宏の指導のもと、当時の秀インターナショナルサービス、つまりエイチ・アイ・エスで、ソウル経由バンコク行きの大韓航空の片道航空券を購入。格安と言っても、今とは違って決して安くはなかったが。

 卒業試験が全て終了したのが2月半ば、卒業式までの間の一ヶ月余り、学生生活最後の旅に出ることとなった。

 

 1国目 韓国

 ソウル経由を選んだのは理由があった。実は、中学生の頃から、一つ年上の韓国人女性と文通をしていて、この機会に実際に彼女に会おうと思ったのだ。高木君とソウル(確か金浦空港だと思う)に到着すると、文通歴10年のスーが空港で出迎えてくれた。出口で盛大に出迎えてくれて、パーティークラッカーをパッカーンとやってしまったことで、係員にちょっと注意されていたみたいだった。これが中学以来文通をしていた“ペンパル”と初めての対面であり、感動的瞬間だった。はタクシードライバーをしているお母さんと二人暮らしで、お母さんが毎日ご馳走を用意してくれた。お父さんは少し前に亡くなったばかりだった。文通を始めた頃は、お父さんが日本語訳をしてくれていた。生前は大変苦労されたと聞いている。韓国滞在中は、ミュージカル“CATS“(高かったはず)にも招待してくれたし、日本料理店(高かった)にも連れて行ってくれたり、民俗村への車の手配をしてくれたりと、至れり尽くせりだった。民俗村はそんなに面白くなかったのだが、今から思うと、韓国歴史ドラマのロケで使われる観光地だったと今更ながらに思う。

 これが初めての韓国訪問だったが、出かけて帰る途中で、近所に住むスーの同級生が何度も近所で待ち伏せしていたり、地下鉄では、日本語を勉強しているという若者に付きまとわれたり、始終、友好的な雰囲気だった印象だ。

 2泊くらいしただろうか、出発の日、お母さんが、韓国の饅頭一箱と1.5リットルの炭酸飲料数本を手土産に用意してくれていた。折角のご厚意だったが、そんなに沢山の炭酸飲料はさすがに持ち込めないということで、饅頭だけを有り難くいただいた。こちらはバックパッカーということもあり、荷物は晃宏から借りたリュックサックだけで、極力持ち物を減らして来たのだ。バンコクは2月でも30℃以上の真夏日だ。バンコクに着いたら捨ててもいい服を重ね着して日本を出発したほど。カメラも荷物になるからと持たずに出た。

 この旅行をきっかけに、長年のペンパルであるスーと直接会うことができ、熱烈な歓迎を受けたことは今でも忘れられず、お母さんにも大変感謝している。