不要回頭、一直向前

趣味や旅の記録など

タイランド 30年前の旅の思い出を辿る - 8-

 カルカッタ 再び

 

 晃宏がどこからか戻って来た(確か、パキスタンに行って来たのだと思うが)。色水をかけ合うお祭り・ホーリーの季節だった。色水をかけられたと思われるカラフルな人をよく見掛け、かけられないように逃げ回ったりした。

 その後は、近隣をぶらぶらしてインド滞在の最後を過ごした。

 地下鉄に乗って街中に出てみた。あんな時代にカルカッタには地下鉄が走っていたのだ。ホームに着くと、天井から等間隔でテレビがぶら下がっていて、ボリウッド映画が流れていた。人は少なく、車両もキレイだった。二駅ぐらい乗っただけだったと思うが、繁華街に出て、電気製品や何やら見物しただけ。気になっていたインドの歌のカセットテープを二つ買った。店員に今一番流行っているやつをくれ、と言って買ったもの。

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インドで買ったカセットテープ

 晃宏に教えて貰った中国人(華僑)の経営する中華料理屋にも行ってみた。高齢の夫婦で営んでいる小さな料理屋だったが、インド人の作るニセモノとは違い、正真正銘の中華料理で、大変美味しかった。


 パラゴンに移ってからも、何となくぶらぶら過ごして遂にバンコクに戻る時がやって来た。

 カルカッタ空港では出国の前に、近くにいたインド人から「この手荷物を預かってほ欲しい。出国したらすぐ返してもらうから」と半ば強引に手荷物を手渡された。出国手続きを済ませると、先ほどの男に手荷物を返した。どうやら、空港職員がタバコや酒といった免税品を購入するために、こういった小細工をしているようだった。

タイランド 30年前の旅の思い出を辿る - 7-

 カルカッタ

 エアインディアに搭乗すると、座席の周辺には日本人が数名いた。バンコクからカルカッタへ飛ぶ旅行者は結構いるのだ。

 カルカッタに到着すると、まず空港の両替所に向かう。日本人旅行者の列が出来ていた。両替の後、バス乗り場に向かうと、なぜか一人の日本人男性が出迎えに来ていたようで、皆一斉に彼の教えのもと、バスに乗り込んだ。例外なく、皆の目的地はサダルストリートだ。薄暗いハロゲンランプの街頭の中を走って行く。サダルストリートに到着して、機内で一緒だった数名と一緒に宿を探すが第一候補のパラゴン(Paragon Guest House)は空きがなかった。そこで、別のゲストハウスに変更し、女子学生の田中さん(仮名)、男子学生の山田君(仮名)とトリプルを取った。かなり晩い時間だったと思う。

 今回のインド旅行の目的地はバラナシだ。インド10日間でどこに行くかを検討した結果、カルカッタ、バラナシの二ヵ所に絞ることにした。バラナシと言えばガンジス川沿いの聖地である。バラナシまでは列車で移動となるため、切符の手配をしなければならない。田中さんもバラナシに行くというので、二人で切符を取り、バラナシに向けて出発した。

 

 バラナシ

 列車は三段ベッドの寝台車だ。翌日、もうそろそろ到着してもよい時間になっても、到着する兆しが見られない。車掌にいつ到着するのか尋ねると、何と、途中の線路分岐で操作を誤り、知らずにずっと別の路線を走っていたというのだ。そこで、途中まで引き返して正しい路線に戻さなければならないという。列車が別の方向に向かって走ってしまったという、何ともあり得ないアクシデントのため10時間近く遅れを取ったと思う。バラナシ駅に到着したのは夜で、田中さんと駅近くのゲストハウスのドミトリーに宿を取った。今日の午後にはガンジス川沿いの宿に到着しているはずだったのに、10日間という限られた日数であるがために、非常に腹が立ってしかたがなかった。

 翌朝、オートリクシャーでガンジス川まで行き、宿探しとなった。川沿いを歩いて久美子の家を目指してひたすら歩く。久美子の文字が見えて来たが、そのまま先に進んで、結局、ビシュヌ(Vishnu Rest House)に泊まることになった。ここはゲストハウスなのか何なのか、寝る場所は、なんと屋内ではなく、正方形の建物を取り囲んで、軒下にベッド(それとも縁台?)が置かれているだけなのだ。初めての経験だが、それはそれでいい経験でもあった。久美子の家では、久美子さんが親切にしてくれると評判が良かったが、結局、一度も訪れることがなかった。

 毎日、ガンガー(ガンジス川)沿いを歩き、沐浴をする人々を眺めたり、時には火葬場を遠くから見てみたり、ゆっくりとした時間の流れの中数日間過ごした。バングラッシーという緑色のラッシーも飲んでみた。ミディアムとかストロングとか強さの違いもあったみたいだ。そんなに効果はなかったかも知れない。食事はサモサのカレーかけが美味しかった。チョーク広場から伸びるダールマンディ市場も楽しめた。ここではクルタパジャマを購入。帰国後、このクルタパジャマを着て、大学の卒業式に出席した。

 バラナシを離れる日、どうもお腹を下していた。何も食べられないが、水分補給だけは欠かせないということで、薬局で黄色いポカリスウェットのような栄養ドリンクの素を買い、でかいペットボトルの水に溶かして飲んでいた。カルカッタ行きの列車に乗ってそれを飲んでいると、向いの席の男性から、その割合では濃すぎると指摘されたが、よく分からないので、それでよしとしていた。寝台列車は、最初は皆、一段目に座って過ごす。かなり晩い時間にならないと、上段に上ってくれないのでかなりストレスがたまり、座っている人達に、もう晩いので上段に上って欲しいとお願いしてしまった。列車内で、一つ、特に印象的だったのは、現地女性が抱いていた嬰児へのミルクの飲ませ方だ。哺乳瓶も持っておらず、道具は小さな金属製の皿のようなもの。一辺が飲み口のように細く突き出した形になっていて、そこから嬰児にミルクを注いで飲ませている。これが初めて見たインド式の哺乳瓶であった。

 カルカッタに到着してから、パラゴンにと思ったが、生憎、空きがなく、取り敢えず、近隣の別の宿を選んだ。そこはかなり広い部屋で、ベッドが数十個置かれていたと思う。宿泊客はほぼ日本人だった。大半は学生っぽい感じの旅行者だが、中には、やたらと売春の体験談をしてくるヤツもいたり、人に話してはいけないような地方のお祭りに潜入して来たというヤツもいたり、旅の猛者が集まっていた。

タイランド 30年前の旅の思い出を辿る - 6-

 旅程変更 インドへ

 バンコクに戻って、再びロイヤルに宿を取った。今回泊まったのは一人部屋だ。母屋の隣にある簡易建物っぽい作りで、薄暗く狭い部屋にベッドが一つ置かれているだけ。例の如く、晃宏にまた会えた。そして、ロイヤルで今回知り合ったのは角南君という小太りの学生や、在日韓国人の趙君とかだろうか。

 さて、今回の旅行では、タイの後、国際列車に乗ってマレーシア、シンガポールに行こうと考えていた。折角、東南アジアに来たのだし、華僑の多い国ということで、このルートを想定していたのだ。しかし、晃宏や角南君の意見では、絶対にインドに行くべきだと言う。バンコクからならカルカッタまで近くて、費用も安いし、社会人になってからマレーシア、シンガポールは行けるけど、インドは簡単に行ける国ではないと。その考え方ももっともだと感じた。

 インドを旅するなんて、時間に余裕がなければ出来ないだろうし、この機会を逃してしまうのも惜しい。しかし、インドとは、全く想定したいなかった。何の準備もして来ていないし、そもそも全く旅の知識がない。晃宏も角南君も、この後インドに向かう予定だと聞いて、自分も覚悟を決めて、インドに向かうことにした。向かうと言っても、拠点はあくまでもバンコクだから、再びバンコクに戻る予定だ。

 角南君とインド大使館に向かい、インドの観光ビザを取得した。晃宏や角南君とは目的地も日程も異なるため、自ら10日間滞在するための予定を立て、バンコクカルカッタ間の往復航空券を手配してインドの旅へ出発した。

タイランド 30年前の旅の思い出を辿る - 5-

 バンコクからサメット島

 バスターミナルは確か今と同じ、チャトチャック公園の向かい側だったはずだ。目指す場所は勿論カオサンロード、ゲストハウスはロイヤルことRoyal Guest Houseだ。しかし、部屋が空いていなかった。困っていると、ピーコが「ついておいで!」とばかりに、裏通りのゲストハウスに連れて行ってくれた。ピーコは本当に親切なのだ。取り敢えず、ロイヤルが空くまでここに滞在することにした。残念ながら、ゲストハウスの名前を憶えていない。

 翌日にはロイヤルで二人組の日本人学生と三人部屋を確保したと記憶している。その後は、怪我が落ち着くまでしばらく遠出は控えていた。その間に、晃宏が戻って来たり、高木君が戻って来たり、カンチャナは相変わらず毎日ロイヤルに出入りしていたし、爬虫類を捕獲しに行って足を骨折した関西の大学生もいたり、カオサンロードに集まって来る日本人も本当に様々だ。

 ある日、カンチャナや何人かと一緒にサンデーマーケットに行くことにした。サンデーマーケットが開催されているチャトチャックはバスターミナルのすぐ隣だ。そこで、なんとチェンマイで一緒になった佐藤さんとばったり再会した。佐藤さんはどこに行ってきたのかは知らないが、今、バンコクに到着したばかりで、「どこに泊まっている?一緒に部屋を取ろう!」と言う。残念ながら、既にロイヤルに泊まっているし、確か満室だったはず。先日泊まった裏通りゲストハウスを紹介した。その後、佐藤さんには会っていないが、その後どしているだろうか。

 怪我も治って、次にどこに行くかを考えていた。島に行ってみるのもいいかもと思っていたのだが、誰かに勧められたのか、サメット島というかなりマイナーな島に行くことにしたのだ。普通ならプーケットだとかサムイ島だとかを選ぶと思うのだが。情報は例によって『歩き方』だけ。サメット島までのチケットを購入し、バンコクを後にした。

 

 サメット島

 バンコクまでバスで数時間、そこから大きな漁船に乗ってサメット島まで。埠頭で三日後にまた迎えに来ると、と言われ、宿を探しへ。第一印象は、砂浜以外に何もない!宿はコテージ式で、超ローコストを選んだところ、現物を見て仰天。ぼろぼろの小屋だ。小屋は壁で二つに仕切られているが、突然“ゴソッ”と音がしたかと思うと、隣に泊まっていた白人女性が、壁の穴を何かで塞いだのだった。そう、隙間だらけのボロ小屋。ベッド(のようなもの)も砂だらけで、寝られるかどうか心配なくらい。水着ももっていないし、海にも入れない。そもそも、リゾートでゆっくり出来る性分ではないのに、なぜここに来たのだろう、食事が出来るのはコテージの管理棟だけ。三日間海岸をぶらぶら歩いたくらいで、何をした思い出もない。
 三日後に漁船が迎えに来て、再び、バンコクに戻った。

 

タイランド 30年前の旅の思い出を辿る - 4-

 チェンマイからチャンラーイへ

 トレッキングの後、何日滞在したかもいない。市場で珍しい果物を買ってみたり、寺院巡りはパスしてぷらぷらしてたと思う。果物は佐藤さんにも分けてあげた。ランブータンマンゴスチン、ラムッとか日本には無いものばかり。ナイトマーケットでは、少数民族の刺繍が施された黒色のジャケットと小銭入れや帽子を買ったと思う。これらは今でも捨てずに保管してある。今回の旅では、最終的にはミャンマーとの国境の町・メーサイまで行こうと考えていて、次の目的地は経由地であるチェンラーイにすることにした。

 佐藤さんとも別れて、バスターミナルからチェンラーイ行きのバンに乗った。数時間で到着したと思う。『歩き方』を参考にして宿を決めた。記憶では広い中庭があって、『歩き方』にも丸が付けてあるから、恐らくThe White Houseだろうか。バスターミナルの近くだ。

 チェンラーイでは特に何をしたか思い出せない。何も見ものがなくて、町歩きした時の風景くらいしか思い出せない。ゲストハウスの部屋の記憶もない。ただ、憶えているのは、中庭で従業員にタイ語の数字の読み方を教えて貰っていたことだけ。

 ここには一泊しただけだと思う。メーサイ行きのバンに乗った。

 

 チェンラーイからメーサイへ

 メーサイに到着。メーサイはミャンマーとの国交の町で、メインストリートのどん詰まりの橋を渡ると向こう側がミャンマー。昔から国境、辺境の町を巡るのが好きで、これまで中国の黒竜江省の黒河、遼寧省の丹東、雲南省の瑞麗、新疆のカシュガル、マレーシアのコタバル、アロースター等々、アジア限定で数多く訪れたことがある。例によって『歩き方』で宿を探す。辿り着いたのはNorthan Guest House。ミャンマーとの国境のサイ川沿いのゲストハウスで、バンガロー形式だ。旅行者は少なそうで、レストランにいた日本人らしき旅行者に声を掛けたら、台湾人だった。

 『歩き方』に、Doi Tungという山の上にあるWat Phra That Doi Tungという寺院が紹介されていたので、翌日、ゲストハウスでバイクを借りて行ってみることにした。借りたのはスーパーカブ。スタッフに行き方を聞いて出発した。途中から両側に広がる水田を眺めながらかなり走ったと思う。寺院に近づいた所で、山道を登らなければならない。舗装もされていない砂地の急な坂を上るため、バイクを押して上ったと思う。頂上の寺院は確かに立派で、黄金色の仏塔があり、しばらく見学をした。そこで、一つ失敗をした。半ズボン姿だったことが祟って、マフラーで足を火傷してしまったのだ。ちょっとした不注意からだった。今でもケロイドとなって痕が残っている。一通り、見学を終えて帰路に着いた。そこで、再びトラブル発生。さっきバイクを押して上って来た砂地の坂道を、今度はブレーキを使いながらゆっくりとバイクを走らせていた。坂が終わるか終わらないかの所で、突然スリップしてしまったのだ。バイクは倒れ、両手両足に酷い怪我をしてしまった。短パンにサンダルという無頓着な装備だったせいで、足の裏の皮がめくれたり、腕の肘が擦り剝けたり、かなりの重症だった。治療をするにも、自力で帰るしか方法はなく、意識も朦朧としたまま、再びバイクに乗り、ゲストハウスに向かった。あの精神状態でよく帰れたと思う。負傷した個所は丁寧に洗浄し、持っていた薬を塗って治療した。そこからはあまり無理な外出は出来ない。メーサイの中心地でぶらぶら過ごすことになる。

 メーサイのメインストリートの先端にある国境検問所を通り、橋を渡るとミャンマー側のタレチクという町に入れる。ビザもないので、国境越えは断念し、橋の途中まで行って向こう岸を眺めたりしてみた。メインストリートにある出店の女の子がなぜか中国語を話す。話を聞いていると、彼女はアカ族だと言う。かつて、中国から移って来たというのだ。近くには中国式寺院もあり、線香を買って参拝をして見せてくれたりもした。

 メーサイでの滞在を終え、バンコクに戻るバスチケットを購入。バスに乗ると、隣にタイ人女性が座った。彼女が食べていたおこわを少し分けてくれたりした。出発を待っている間、彼女がふと、聞き慣れた言葉を発したのだ。中国語である。話を聞いてみると、彼女は台湾にいたことがあるという。タイ人のおかしな訛があって聞き取りにくい部分が多々あったが、コミュニケーションが出来ることは大変助かった。バスではお菓子か何かが配られ、翌日の朝にはバンコクのバスターミナルに到着した。

タイランド 30年前の旅の思い出を辿る - 3-

 チェンマイ

 高木君と別れて、夕方ごろ、バスに乗ってバンコクを後にした。カオサンロードから出発したのか、バンで別の場所まで行ってからバスに乗ったのか憶えていない。途中のトイレ休憩の時、日本人らしき男性を見かけた。眼鏡を掛けたぽっちゃり系の人。チェンマイに到着して声をかけ、一緒にゲストハウスを探すことになった。名前を憶えていないので佐藤さんと呼ぶことにする。

 佐藤さんもトレッキングに行くと言うので、二人でツインの部屋を取って、そのゲストハウスで翌日からのトレッキングの予約をした。このゲストハウス、名前も憶えていないし、ロケーションすら分からない。大きなゲートをくぐってすぐ左側に受付があり、その奥は広い敷地で、その周囲を宿泊施設が囲んでいるような感じだった。泊まっていたのは、入って左奥の二階。小奇麗で、シャワーは共同。ナイトマーケットまでと、トゥクトゥクに声を掛けたら、すぐそこだから歩いて行きなと言われたことから、ナイトマーケット周辺であったことだけは確か。『歩き方』に付けられた印からすると、Chumphoi Guest Houseだったかも知れない。30年近く前のことだから、今はもうなさそうだ。探してみたが、それらしき施設はなかった。

 トレッキングのメンバーは、日本人は佐藤さんと二人、東ドイツ人男性2名とルーマニア人女性名。佐藤さんは年上だったはずだから、当時社会人だったのだろうか。市内からソンテウで山の方に移動し、トレッキング開始。今なら、スマホを持っているから、GPSでどの辺りなのかも分かるものを、当時は地図もなし、地理感覚も方向感覚もなし、訳もわからず、ガイドさんに付いて行くだけ。ガイドさんとは別にもう一人、小柄な男性が同行していた。彼の姿格好からして、恐らく少数民族だったと思う。

 山道を歩いて山間の平地についた。ちっとした小屋があり、その前には遊具があって、小学校跡のような雰囲気だった。そこからの景色は新緑の山々だけだ。今夜はここで一泊するらしい。シャワーはないので、この先の谷に流れている川で水浴びをするよう言われた。水浴びの道具も持ち合わせていなかったので自分はパスしたが、佐藤さんは水浴びに行って、気持ちよかったらしい。

 翌日も山道を歩き、途中で広い川に立ち寄った。女性陣は水着を持参していたが、東ドイツの男性二人は恥ずかしがることもなく、全裸で水に入って行くのには大変驚いた。我々日本人二人はと言うと、さすがに脱げず、着衣のまま膝まで浸かる程度にした。

 途中、象に乗って山道を進む区間もあった。一頭の象の両脇に一人ずつ、象の首に一人、合計三人を乗せた象が列をなして山道を歩く。乗り心地はお世辞にもよいとは言えなかったが、途中、象が前を歩く象に発情するというハプニングもあって場が盛り上がった。

 最後の夜は山岳民族の小学校にも立ち寄った。子供たちがセパタクローをしていたのを眺めていた。当時、日本人では馴染みのないスポーツだったと思う。

 翌日、山間を歩いた後、ちょっとした川に到着。竹の筏が用意してあり、これで川を下るという。そう、これがバンブーラフティングだ。記憶が定かではないが、暫くの間、川下りを楽しんだはずだ。

 全行程における食事はガイドが作る。食事の内容は基本的に炒め料理だったと思うが、太いキュウリを輪切りにして油で焼いて食べた記憶があり、この時にこの食べ方を覚えた。

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バンコクに戻ってから買ったセパタクロー

 このトレッキングで忘れられないのは、山奥で見た満天の星空だ。流れ星も何度も見かけた。こんな山奥だから空気がとても澄んでいたんだろう。今まで一度も見たことのない美しい星空だった。

タイランド 30年前の旅の思い出を辿る - 2-

 2国目 バンコク

 バンコクに着いた。空港はドンムアンだったはずだ。当時は空港の位置関係も全く把握しておらず、何番のバスに乗って、ぐらいしか知識がなかった。『地球の歩き方』を頼りにカオサンロードに向かう。

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地球の歩き方』当時のまま

 クラスメートの晃宏は一足先にバンコクに到着していて、定宿の“Royal Guest House”にいることになっている。空港からバスに乗り、何かのモニュメントを過ぎた辺りで下車して少し歩く必要があったと思う。カオサンロードに着いてからは、通りから少し細い路地を入っていくが、白い壁の小奇麗なゲストハウスだ。高木君とドミトリーを取った。エアコンはなく、ファンだけだが、あの頃はそれが普通だったから、全く苦にもならなかった。受付には“ピーコ”と呼ばれているニューハーフがいて、あれこれ世話を焼いてくれる。すぐに晃宏にも会えた。しかし、予想以上に暑い。ソウルでいただいた饅頭は一つ二つ食べたが、暑さのため食が進まず、ピーコ達にもお裾分けした。ピーコはいつも日本語の勉強に勤しんでいて、日本人旅行者にも人気があった。

 カオサンロードは勿論外国人だらけの無法地帯っぽい雰囲気を醸し出している旅行者のための通りだが、今と比べればもっと穏やかというか、素朴さが残っているというか、庶民っぽさがあるというか、親しみやすさのような感じがあった。ゲストハウスも一泊数百円だったし、食事も安い。この通りの中だけで、ボケーっと何日も過ごしてしまう旅人もいた。この通りには、ここに住み着いたタカさんという日本人がいて、チャオプラヤー川の詐欺に関する注意書きをあちこちに貼ってくれていた(この詐欺のことは知ってはいたがが、実は自分もやられたことがある)。また、このゲストハウスに出入りしているカンチャナと呼ばれている在日韓国人の女の子もいた。彼女はカオサンロードに来て久しく、日々、タイ語の独学に励んでいるそうだ。他にも、20代くらいの日本人女性がいて、一時期、近くの物置で寝泊まりしていたとも言われていた。

 飲み水にはとにかく気を付けるように言われていて、ゲストハウスのフロントにある冷蔵庫のミネラルウォーターを買っていた。今のようなペットボトルのものはなく、1リットルくらいの白いポリエチレンの容器に入っているものだった。タバコはローカルのものは“クロンティップ”という名前だったと思うのだが、普通のとメンソールがあって、メンソールの方は吸い過ぎると精力が弱くなるなんて噂もあった。

 周辺をぶらついたり、ゲストハウスで出会った旅仲間とダベったりしているだけでも時間が過ぎていく。居心地がいいカオサンロードではあったが、次の目的地に向けて出発しなければならない。晃弘に勧められたチェンマイのトレッキングだ。だが、一つ問題があった。日本を発つ前に、トレッキングシューズを新調したのだが、サイズが若干小さかったのだ。そのため、履いていると足指が痛い。已む無く、インナーソールを剥がしてみたが、それでも履き心地が悪い。そこで、カオサンロードの靴店に買い取ってもらうことにした。大した金にはならなかったが、捨てるよりはましだ。そして、記憶は定かではないが、別の靴を買い求めたと思う。

 タカさんのいる店で、チェンマイまでの長距離夜行バスのチケットを購入した。